■1973年1月6日、朝日新聞社の新年会で、国有地を取得した当時のOBは
「国会の野郎どもも、朝日がこわいから何もいわんし、委員会でも問題にならん…」と、
吠えていました。

この妄言が、朝日新聞の国有地取得に関する闇をさらけ出していたのです。

朝日新聞は、1973年1月23日、
経済的市場価値のない土地と交換(一部売買)する形で、
都心の一等地(東京都中央区築地:海軍経理学校跡地約4400坪:時価総額420億円)を
入手し現本社を建てていました。

この国有地を入手した広岡知男朝日新聞社長は、1973年1月6日、
朝日新聞出身の集まりの旧友会で
「…毎日、読売も発送、トラックの関係で有楽町を逃げ出した。
 わが社でも、どこかいいところはないか、便利で広い土地はないか、と探していたら、
 国立がんセンターの近くで海上保安庁(水路部)跡の四千四百坪という、
 ちょうどいい土地が見つかりましたので、譲り受けました……」
(『週刊新潮』特集記事【朝日新聞東京本社移転に国有地の「手に入れ方」】1973年1月25日号)と、挨拶していました。

そして出席していた旧友が
「今の古い建物は、…修繕の見積りをさせたところが、
 五、六十億かかるという、とんでもない話になった。
 五、六十億かけるんなら、それだけの金で土地を探したほうがいいというんで、
 担当委員が作られた。
 ……街の不動産ブローカーから買うと高いので、
 大蔵省担当が国有財産課長にまともにぶつかり、脈がありそうだというんで、
 専務が大蔵大臣に直接当たってウンといわせ、社長がアイサツに行った。
 国有地はたくさんあるが、いちばん条件のいいところが例の海軍経理学校跡、
 ……いまの本社は、NHKのように身売りはしない。…身売りする必要なんかない。
 …広岡社長は、貸ビルにするなんてケチなことはいわんが、
 オレのカンでいえばそうゆうことだな…」(同週刊新潮)と、
内情を明らかにして
「国有地の払い下げは、よく国会でも問題になるが、
 …国会の野郎どもも、朝日がこわいから何もいわんし、委員会でも問題にならん。
 …公共的機関である朝日新聞が大手を振って正面からいったんだ。
 発行部数が六百六十七万部。読売、毎日をはるかに抜いている。
 その天下の大朝日が国有地の払下げを受けても文句はないだろう。
 朝日の信用だよ。
 国会議員だって、衆参合わせりゃ、朝日新聞出身が二十数名いて、
 朝日新聞出身議員団として親睦会をやっとるくらいでね。
 そういう力も少なくなかっただろうね……」(同週刊新潮)と、
いま問題になっている森友問題など吹っ飛ぶくらいの大事件です。

朝日新聞の専務が、大蔵大臣に直談判して、
都心(築地)の一等地約4400坪(時価総額420億円)を
強奪したようなものだったのです。
その実態を、朝日新聞が大蔵省に交換を認めさせた
東京都杉並区下高井五丁目のコンピューター閉鎖記録「土地台帳」と「登記簿」及び、
戦前からの当該土地調査の実態を精査して、朝日新聞の犯罪性を明にします。

朝日新聞が杉並区に所有していた土地(約九千坪)の最寄り駅は、
井の頭線「浜田山駅」から約1km徒歩15分くらいかかり、
現在、“杉並区立塚山公園”になっていました。
現地に着くまでタクシーをつかまえようにもまったく見ることもなく、
公共交通はコミュニティバスだけの不便なところでした。

そもそも、朝日新聞が当該土地を入手したのは、
法務局の土地台帳によると
昭和18(1943)年7月27日に売買によって所有権移転が行われていました。
その地目は「山林」で戦後ずーっとそのまま経過し、
1966(昭和41)年5月13日に「雑種地」に変更されていますが
「原因」は記されてません。
そして不可解なことは、
唐突に翌1967(昭和42)年3月3日に地目が「宅地」に変更されていたことです。

なぜ不可解かと申しますと、その土地は戦前から文化財保護の観点から
「宅地開発」が難しい場所だったからです。

それは、朝日新聞が当該土地を取得する前に、
その土地から東京都初の「縄文遺跡群」が発見されていたからなのです。

杉並区立郷土博物館【復原住居と竪穴住居址見学のしおり】の
『下高井戸塚山遺跡』によると《神田川流域の台地上に位置しています。
1932(昭和7)年頃から調査がされていましたが、
江坂輝彌氏によってはじめて紹介されました。
その後、1937(昭和12)年、後藤守一氏(明治大学名誉教授・考古学)により、
東京市(当時)内において初めて縄文時代の竪穴住居址群が発見されました。……》と、
記載されています。

また杉並区教育委員会掲示によると、
塚山遺跡は
「区立塚山公園敷地一帯を中心とした旧石器時代(約三万年前)から
 縄文時代中期(約三千五百年前)にかけての集落跡です」となっており、
戦時中にも関わらず、朝日新聞が当該土地を取得したのは
戦前文化事業に熱心だったことと符合します。

その縄文遺跡群は、文化財保護委員会(現文化庁)が
1965(昭和40)年に刊行した『全国遺跡地図』に記載されており、
国が埋蔵文化財として保護の対象にしていたのです。

当然、1950(昭和25年)に施行された『文化財保護法』の
「第96条土地の所有者又は占有者が出土品の出土等により
 貝づか、住居跡、古墳その他遺跡と認められるものを発見したときは、
 第九十二条第一項の規定による調査に当たって発見した場合を除き、
 その現状を変更することなく、遅滞なく、
 文部科学省令の定める事項を記載した書面をもって、
 その旨を文化庁長官に届け出なければならない。」の対象遺跡群だったのです。

実際、現地を視察すると朝日新聞が
北側の斜面を大きく切り開いて造成した野球場がそのまま残してあり、
東側角の現在「ふれあい広場」になっているところにも
野球場が造成されていたとのことです。
実際、その野球場は
埋蔵文化財保護対象遺跡群を破壊した「動かぬ証拠」になっています。

杉並法務局に問合せても、文化財保護法の対象になっていた土地が、
なぜ地目が「山林」から「宅地」への変更が許可されたのかは、
1967(昭和42)年当時の「申請書」が保存されてないので解らないとのことでした。

それを解く鍵は、前述した『週刊新潮』に記されている朝日新聞旧友の発言にある
「五、六十億かけるんなら、それだけの金で土地を探したほうがいいというんで、
 担当委員が作られた」とあり、
国有地払い下げ当時の朝日新聞社内体制を精査すると、
これまでの疑問を払拭できる実態が明らかになりました。

それは、1967(昭和42)年当時、朝日新聞社内では
社会主義者たちによる社内革命の真っ只中の時期だったのです。

1964(昭和39)年1月、
朝日新聞の内紛(社内社会主義革命)で村山長挙社長が辞任すると、
広岡知男は同3月に東京本社編集局長に復帰し、
元朝日新聞常務取締役で全日空相談役となっていた
朝日新聞社顧問の美土路昌一が同年11月に社長になると
広岡が専務取締役となって、労組幹部時代の仲間の森恭三論説主幹らと組んで
実権を握り、朝日新聞の経営から大株主の村山家を排除したのです。
広岡は1967(昭和42)年7月、社長に就任。
そして、緒方竹虎の主筆解任以来28年間空席となっていた主筆職を
1971年5月から兼務し、朝日新聞社史上初の社長兼主筆となっていたのです。
これらの事実から、地目を「宅地」に変更したのは広岡時代だったことが解ります。

その時期の政界は、歴史に名を刻むことに前のめりになり、
日中国交正常化を推進しようとしていた田中角栄が、
1972年7月7日に総理大臣に就任していました。
その田中政権を大番頭として支えたのは、
朝日新聞出身国会議員団親睦会々長だった
橋本登美三郎自民党幹事長だったのです。

前述した
「国会議員だって、衆参合わせりゃ、朝日新聞出身が二十数名いて、
 朝日新聞出身議員団として親睦会をやっとるくらいでね。
 そういう力も少なくなかっただろうね」の親睦会々長が、
橋本登美三郎自民党幹事長であれば怖いも無しだったのです。
ところが、南京攻略戦の朝日新聞従軍記者団のキャップとして
南京に入城した橋本登美三郎が、1982年6月、ロッキード裁判地裁公判で
「有罪」が確定すると、朝日新聞は1984年4月から
「南京大虐殺キャンペーン」を開始したのです。

実際、日中国交正常化に前のめりになっていたのは、
田中角栄以前に朝日新聞の独裁者広岡知男その人だったのであり、
田中角栄と広岡知男が連携したことが、
「歴史認識」に象徴される戦後我が国の不幸の始まりなのです。

国有地払い下げを「専務が大蔵大臣に直接当たってウンといわせ」たと
旧友が発言していましたが、そのときの大蔵大臣も
田中派の植木庚子郎だったのであり、当時の大蔵大臣の立場では
「ウン」以外の選択肢などなかったことは明らかでしょう。
しかし、法治国家の体裁上、様々なアリバイ工作が行われていたことは、
法務局に残されている土地台帳から類推できるのです。

実際、朝日新聞は、都心有数の一等地だった国有財産と交換する土地が、
経済市場価値がない山林(埋蔵縄文遺跡群)だとまずいので、
大蔵省が官舎を建てれる土地と交換したと説明できるように地目を
「宅地」に変更したのであろうが無理があります。

また、大蔵省も少し調べれば、官舎など建てられないことは直ぐ判ったはずですので、
ほとぼりが済むまでその土地を塩漬けにし、
大蔵省が東京都杉並区に公園用地として所有権移転登記が行われたのは、
登記簿によると1985(昭和60)年3月29日だったのです。
その原因を「売買」としてますが、実質上は「無償譲渡」だったのです。
この時の大蔵大臣は、田中派の竹下登でした。
これで朝日新聞の国有地疑惑取得問題が登記簿上終了したかのような
体裁になっていますが、社会の「公器」としての「天下の大新聞社」には
道義的・倫理的責任はそのまま残っているのです。

日本国勢調査会の調べによると、朝日と大蔵省の取引は2筆の契約になっています。

実際、海軍経理学校跡地の朝日新聞と大蔵省の取引の1筆は、
中央区築地5丁目2番1号、面積3041坪(1万35㎡)は、
73年2月12日に「売却」として朝日新聞に所有権が移転されたが、
所有権移転日から10年間「買い戻し特約」が設定登記され、
買い戻し権者は大蔵省となっていました。
売買代金は17億271万円(坪あたり56万円)。
当時、築地駅周辺の土地売買がなく
「八年前に8坪売ったら千三百万円だった…」(同週刊新潮)とあり、
まとまった土地なら坪200万円は下らない価値の土地が
超破格の坪56万円だったのです。
また朝日新聞は購入代金を「延納」したため、
大蔵省が「29億5890万円」の抵当権を設定していました。
もう1筆は昭和48年1月23日(登記受付日昭和48年6月11日)、
築地5丁目2番25号、面積1408坪(4645㎡)の土地と交換し
た朝日新聞所有の通称「朝日浜田山グランド」(塚山遺跡群)との交換によって
所有権が移転されていました。「等価交換」として評価を築地の坪単価56万円とすると、
評価額は7億8800万円ということになります。
朝日新聞はこの2筆つの取引で
合計4448.4坪(1万4680㎡)の都心一等地を取得したのです。
 
当時の「朝日新聞浜田山グランド」の評価額は7億8800万円ということになりますが、
事実上杉並区に「無償譲渡」したのであり、
国民の財産に対する「瑕疵担保責任」が生じたことになります。

2017年3月に発表された築地の当該土地の地価公示価格は、
坪当たり611万6000円。中央区平均坪単価公示価格「2198万円」を基に計算すると、
築地本社底地の現在の価格は「978億円」となり、
森友問題などかわいらしい大疑惑なのです。

※【「1937南京」歴史戦完結】映画製作支援版画に御協力いただける方は、
詳細を水間条項国益最前線ブログの冒頭で確認してください。
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